●離々日記(8)

bP 02/03/25〜02/04/27 bW 03/10/25〜04/01/22
bQ
02/05/12〜02/06/29 bX 04/02/13〜04/06/06
bR 02/07/13〜02/09/18 bP0 04/08/10〜05/03/25
bS 02/11/08〜02/12/24 bP1 05/05/12〜05/12/10
bT 03/01/07〜03/02/26 bP2 06/01/20〜
bU 03/05/12〜03/06/17
bV 03/07/06〜03/09/18

bW−1 03/10/25
 10月19日、備前焼陶器祭りに行った。伊賀焼陶器祭り参加メンバーの研修旅行だ。
 朝5時半に出発するというので4時起きして準備した。夜更かしして深夜の星空は見ることも多いが、午前4時の空などほとんど見たこともない。だが最近の良い天気のせいもあって、透明感のあるSF映画に出てくるような夜空にうっとりしてしばし眺めた。
 マイカーで集合地点に行くので、まだ暗い5時ごろに出た。すぐに懐中電灯を持って歩いている人を見た。近くのドライブインで働く人だ。地道で何台かの車が通る。知らない時間にも他人は行動している。この時間帯は本当に経験不足で私にとっては感動だ。
 (パラグァイに住んでいた頃、小旅行でボリビアに行った。出発の前日にぎっくり腰になってしまった。変更することは難しかったので、そのまま行くことにした。大きなトランクを持つことができなかったので、妻に持たせてラパスの街を歩いた。小さめの妻と大きめの私。手ぶらの私に、大きなトランクを持つ妻。街のポリスは驚いて私たち東洋人を見ていたことがあった。
 ラパスからパラグァイのアスンションに戻るときも早朝で、ホテルから出たタクシーからの夜空はとても印象的だった。早朝の出発と言うことで、前日に予約を入れておいたのだが、そのタクシーが来ない。少し待っても来ないので、ホテルの人に他のタクシーは無いのかと尋ねると、待ってましたとばかりにロビーに居た人達がずらずら出てきた。朝早くから何故このホテルに泊まり客でもなさそうなのに大勢いるのかなと、不思議だったが、彼らは皆運転手だったのだ。)
 ほぼ予定通りにチャーターバスは出た。この季節私は花粉症に悩まされる。春の杉、檜は言うに及ばずセイタカアワダチソウにもここ数年前から反応するようになった。従ってこの時期酒は控えざるを得ないが、少し落ち着いてきた朝6時半頃に、車内の宴会は始まった。流石は陶器屋さんの旅行!!
 岡山県備前陶芸美術館で田圃の下の土と黒土を混ぜるという備前焼土の作り方の説明を聞いて驚いた。パラグァイで建築資材としての土の作り方とほぼ同じなのだ。パラグァイは田圃が無いが、湿地が多いのでそこの下の土を使う。そして可塑性の調節に黒い土を混ぜる。
 閑谷学校(国の特別史跡)の瓦は皆備前焼というが、パラグァイではそれらの土は、建築用なので瓦はもちろん化粧外壁煉瓦として現在使用している。
 焼成温度が違うのと、パラグァイでは綺麗な単色を好むので、もし備前風に焼けてしまえば二級品となるのは間違いないが、瓦の外見もよく似ていると言える。
 日帰りの陶器屋さんの小旅行は、酒が切れたので備前市で購入した以外の予定外は無く、無事に伊賀に帰着した。
bW−2 03/11/25
 つい最近まで自分が忘れないために苦労して覚えたスペイン語を教えていた。でもこの頃使う機会がないので忘れがちになり、一応スペイン語教科書の本も終わったので授業は終了してしまった。
 伊賀では圧倒的にブラジル人が多いので、どちらかと言えばポルトガル語が必要とされている。上野市が教えてくれると言う機会があったので、応募して3ヶ月の授業に参加している。
 スペイン語と似ていると聞いていたがその通りであった。ブラジルの大学を卒業して奥さんがブラジル人という人物がパラグァイの職場で同僚であったが、彼の喋るアクセントがなんかスペイン語では少し変だと思っていたが、今私がポルトガル語を習っていて、ようやく彼の言葉がポルトガル語訛りであったことに気づいた。それがどうしたと思われるかも知れないが、たぶん彼にはブラジル留学がプライドだったのだ。この辺でも最近は減ったがその昔は、東京の大学を卒業してからは地元に帰っても標準語で喋る人はいたものだ。
 帰国して8年も経て今更なんだと思うが少しポルトガル語を習っただけで、パラグァイのスペイン語が多くブラジルのポルトガル語の影響を受けていることを知った。同じスペイン語圏なのだがパラグァイ人はアルゼンチン人とボリビア人が嫌いで、どちらかと言うとブラジル人が好きなようだ。
 アルゼンチン人は人種的に白人が多く、パラグァイ人はアルゼンチンに出稼ぎに行く構造があるので、基本的につらいのだ。またアルゼンチンのスペイン語がイタリアからの移民が多かったことに起因するイタリア語訛りで、独特のイントネーションがあり、これまたグァラニー語というパラグァイのインディオの影響を受けたパラグァイの少しいい加減なスペイン語を馬鹿にしているところがあるのだ。
 ボリビア人に対しては、対ボリビアのチャコ戦争という経験が残っているのと、パラグァイ人はほとんどがスペイン人との混血なのに対して、ボリビア人はあまり混血してないので人種的な偏見があるのだと思う。
 しかしながらボリビア人のスペイン語はとても綺麗だし、コチャバンバという大学都市に立ち寄ったときに、学生の入るようなbarに行くとチェ ゲバラの顔のポスターが張ってあり、しかも彼らは全員英語で会話しているので驚いた。パラグァイでは大卒でも英語はほとんど通じないが、ボリビアの教育水準は高いと感じた。
 伊賀はブラジル人が多いので彼らのためのお店もある。本格的大衆ブラジルレストランもある。パラグァイで時々利用していた懐かしさもあるし、伊賀に遊びに来られたお客様を喜ばせるために時々利用しているが、ブラジル気分を味わえるので面白い。でも普通の日本人にはとても美味しいとは思えないようだ。
bW−3 04/01/06
 いつの時代でも象徴的な事件というものがある。
 アメリカ合衆国では2001年9月11日のテロ攻撃がおそらく直近のものだ。
 阿部定という女性が愛人男性を絞殺し、彼の一物を切り取った猟奇事件が昭和11年5月にあった。当時を知る人が言ったことには、犯人の彼女に世間は同情し、同年の2月にあった青年将校の決起事件から導かれる重苦しい日本の雰囲気を一変させたと言う。
 この新年のTV上でも、偉い方々のお話の中で、気分一新と言う言葉を盛んに使われていた。何が、何を一新かはよく解らないが、重苦しい雰囲気が日本にあるのは事実だ。かつては仮想敵等を創り上げ、それを憎しみに変えたりしたのだ。
 何にしても時代の流れには誰も逆らえず、意図的に作り上げた張本人にも、反対に思う人にも、時に流されていくのが一般的だ。
 お正月なのだから年初は難しいことを言うべきかと、書き始めたのだが少々苦しくなってきた。確実に言えることは時代は変わるということに過ぎない。
 私の住む町もこの11月に伊賀市になるというが、新市の呼称、水道代がどうだとか問題が矮小化されるばかりで困ったものだ。
 重要な事柄は意見がなく、小さなどうでも良いような事柄に会議のエネルギーは使われる。
 私自身の決意としては、悪さを控えて、よく働くこと以外にない。 
bW−4 04/01/22
 大寒ということで流石に寒い。私の住む伊賀の柘植は、霊山と言う山が北からの風を遮るようにそびえ、地形的にホットスポットで、風が強く、体感温度がさらに下がる。伊賀の北海道といわれる所以である。
 私の10キロワットの窯が長年の酷使で、ついに断線した。線を取り替えようとかなり前から準備してあるのだが、雑用に追われて今になってしまった。今日はさあ張り替えるぞと思っていたのだが、窯場のあまりの寒さに気力が断線してしまった。ここ数日はとても寒いらしいので、もう少し先延ばししようかと考えている。
 さらに四日市市の陶芸家から電話があって、今日信楽に粘土を買いに行く予定にしていたが、土屋さんが伊賀と信楽の峠が凍てついていて危険と言うので止めたと言う。
 しかし、最近では一年の内でせいぜい一週間ぐらいがそのようになるだけだ。自分の狭い世界で、寒いと言っているだけで客観的にはそうたいしたことはない。
 HPでもupしていた竹灰釉薬のサンプル試験がようやく終わろうとしている。これも遅れること一年で、全く自戒しなければならない。
 三重県に住んでいるわけだがここから15キロ東の亀山にシャープの液晶工場が出来た。最新設備の工場で、関連工場を含むと約2000人が働くという。三重県は誘致に90億、亀山市は45億出したというが周辺も色々恩恵を受けているようで、投資効果が顕著な珍しい一例となろうとしている。
 名阪自動車道という名を聞いたことがある方もおられると思うが、西名阪自動車道と東名阪自動車道がある。何故東西があるかというと、西は大阪から奈良県天理市まで、東は三重県亀山市から名古屋までで、その間の天理市から亀山市までは一般自動車専用道でつまり無料なのだ。もちろん大阪から名古屋までは連続しているから、普通に走っているとその違いにはほとんど気づかない。だから私の住む伊賀は町の東西を約30キロ無料の専用道が通じていることになる。シャープの工場は天理市にもあり、新工場が亀山市に移転決定した要因の一つには無料道の存在は大きいと思う。
 道のことで一番不満に思っているのは、日本の道にはあまり名前が付いてないことだ。向こうの警察もの映画などで道と番地を言うだけで、きちんと探し当てるのは不思議なことだと思っていたが、パラグァイに住んでいた時その理由が解った。
 ともかくどんな道にも名前を付けるのだ。わずか数100メートルの道にも付ける。道の入口と出口にはもちろん看板を付ける。交差点は必ず看板を付ける。名称はそれぞれの所管が付けている。時の英雄、姉妹都市、記念日などさまざまだ。 
 たとえば十字路だとすると4本の道があるわけだから、交差点で4本の道全てに、ここからこの名前の道ですよと言う表示を必ず入れる。これで誰が見ても名称に間違いは起こらない。比較的長距離の道では、数100メートルごとに道の名前を表示する。
 次は番地である。道は両側に建物が並ぶ訳だから道の始まりの最初を0001番地などとする。これも伴地番号に奇数と偶数とがあるから例えば右側を0001番地とすると次の右は0003となり、左側が0002番地なら次の左は0004となるわけだ。この番地もだいたい普通の家の間口が基準となっているようだ。間口の小さい家だと番地の下にも数字を付けて、例えば0503−1、0503−2等と表示する。
 さらに道路名の表示看板の下にここから何番地が始まると言う表示がある。道の反対側にも同様なものがあるので、道を進むと番地が増えていくのか減っていくのか、左右のどちらが奇数か偶数かは、どうしても解る。
 さらにどの家も表札の変わりに道からすぐのよく見えるところに番地表示を義務づけている。大きなビルも必ず番地表示されている。従って表札は不要である。これで道の名前と番地だけで誰でも行けることがお解りだろう。
 太閤検地というのが豊臣秀吉、地租改正というのが明治政府、このときは明らかに農業が経済の基礎だった。21世紀の情報時代の現代日本でも道路改正を是非実施して頂きたい。
 さらに基幹道はともかく、道の名称を所管が民間に売るのも悪くはないのではないか、かなりの財源が見込めるではないだろうか。
 パラグァイの軍隊内敷地の道にもちゃんと名前が付いていたので感動した。日本自衛隊のイラク駐屯部隊が自身の基地内道に名前を付けるとは到底考えられないからだ。



冨山善夫(とみやまよしお)

都美恵窯(つみえがま)

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