●離々日記(3)

bP 02/03/25〜02/04/27 bW 03/10/25〜04/01/22
bQ
02/05/12〜02/06/29 bX 04/02/13〜04/06/06
bR 02/07/13〜02/09/18 bP0 04/08/10〜05/03/25
bS 02/11/08〜02/12/24 bP1 05/05/12〜05/12/10
bT 03/01/07〜03/02/26 bP2 06/01/20〜
bU 03/05/12〜03/06/17
bV 03/07/06〜03/09/18

bR−1 02/07/13
 台風もここ伊賀ではたいしたこともなく通過し、そろそろ梅雨も終わろうとしているが、今日はよくない日だった。
 陶器まつりの準備で忙しくて放っておいた裏の畑から新竹が伸び放題、草も当然同じ。今日は素焼きだったので、時間に少し余裕ができたので草刈りをしようと思い立った。
 3年前に古い草刈り機を貰ったのだが、これが何とも難しい奴で情けなくなる。修理に何度も出し、新しいのを買えるぐらいにお金を使ってしまったので、捨てるに捨てられない。
 なかなかエンジンが掛からない。プラグを掃除したり、混合ガソリンを新しいのを買ってきたり、草刈り機のネジを締めたり緩めたり。何度も力を入れて引っ張るので、指の皮が剥けそうなぐらいに痛くて疲れた頃に掛かることもある。そうでないときもある。まるで古いアメリカ映画の自動車での緊急始動シーンのようだと妻は笑う。
 今日も同じような状況だった。格闘後、結局プラグを新品にして、調子良かったのだが、また急にプスンと停まってしまった。今日も草刈りをしている時間と同じぐらいの時間が、エンジン始動にかかってしまった。しばらく草刈り機を置いておくとうまく掛かることもあるので、諦めて普通の草刈りガマで溝の背丈の伸びた草を刈っていた。
 すると急に足長蜂がブーンと飛び出してきて、事態に気がついた時は既に右手の甲にチクリというかガブリと言う感じだった。
 同時に未だ何匹かが飛んでいたので、慌てて蹲った。大型の雀蜂に以前襲われそうになったこともあるので、攻撃をかわす方法は知っていた。草刈り機と格闘して指の皮が剥けそうになっていた右手をまた蜂にやられてしまった。傷口を適当に絞り出してアンモニアを塗った。
 今日はかなり暑くてばてたので、早めにシャワーを使って指と甲にバンドエイドを張って仕事場でパソコンしていたら、側のブルーベリーの木がなんだかごそごそしている。
 私の庭のブルーベリーは木が8本ぐらいあって、植えてから15年ぐらいの時間が経っているので、とても沢山実ができる。何だろうと思って見に行くと、なんと!サルが実を採っているではないか。
 「こらっ!」と声を張り上げたら、一度は隣の屋根に逃げかけたが、上半身裸体の私の短パンだけの姿を見て、こいつはたいしたことはないと考えたか、踵を返して向かって来るではないか!
 負けずに「こらっ!」と言うと、歯を見せて今にも飛びかかって来そう!少し私がひるんでしまった。長い物を持つと逃げるとテレビで聞いたことがあったので、前から捨てようと思って置いてあったパイプを慌てて掴み、体勢を立て直すとようやく逃げてくれた。
 サルがかかってきてどこかのアホがやられよったと、もう少しでおもろいニュースになるところだった。しかし、もし私が被害を受けたら、町も何とか対策に本腰を入れてくれるかなと思ったりもしている。今日はほんとに災難の日であった。
bR−2 02/08/1
 毎日暑い!こんな田舎でも日中は耐え難く熱いのだから、都市部はどうなのだろう。東京に住むある人は、部屋が熱くなるので結局24時間エアコンをつけっぱなしにしていると聞いた。すると街は更に熱くなり、解決なしのヒート スパイラルだ。
 伊賀焼陶器まつりが7月26日に終了し、私には少し時間ができた。
 今回で伊賀焼陶器まつりは22回目になるが、最初の頃から考えると随分盛大になってきた。
 いろんなマスコミに採り上げて頂いたからか、遠くは北海道から沖縄までお客さんが来られるようになった。そんなお客さんは伊賀焼の古典的なイメージから、薪窯の自然灰釉の焼締のものを好まれるようであった。
 伊賀焼陶器まつりは伊賀にある約70軒の窯元の半数が出展する。他産地の陶器まつりの多くは、歴史も古く、慣例から主に問屋さんの在庫処分市であることが多い。だからお店によっての個性化という点で、今ひとつであるが、伊賀は問屋さんが無いに等しいので、各窯元の直売スタイルを採っている。
 従業員が100人近くいる大きな窯元から、私どものような個人商店も量産型と手作り型とあるので、作品の多様性は何処の産地にも負けないと思う。
 最近は若い独立した人が面白いものを作り出し、古手もうかうかしてられなくて、良いことだ。
 陶器まつりの中で私の窯だけが青磁を焼いていて、青磁も人気があったが今回は品数が少なかった。反省点だ。
 以前葬儀屋さん用にに作っておいた骨壺の青山(せいざん)のパンフが沢山残っていたので、捨てるのももったいなく陶器まつりの展示台に並べておいた。
 見開きのパンフなので最初何だろうと好奇心から手にとって見られるようだが、じっと見て内容を理解すると、縁起でもないと言う感じで、直ちに戻される人が多いのを見て、これでは骨壺は売れそうもないと、思わざるを得ない。
 お墓を生前に作るのはあまり抵抗がないようだけれど、骨壺は本当に拒否反応が強い。
 私の妻の父は98年に他界したが、その葬式の直前に義兄に骨壺はないかと聞かれた。関東は概してサイズが大きくて、ちょうどその時には在庫がなかったので、結局義父の入った骨壺は私の作ったものではなく、普通のものになった。
 義父はガンで、娘である私の妻が看病に付いていたときに、義父から骨壺の話はなかったという。闘病しているときに骨壺の注文などは当然出来ないだろう。
 誰でも元気なときに骨壺のことは考えない。弱ってきたら骨壺のことなど考えたくないし、そんな時は買い物の気力さえないだろう。
 というわけで人には骨壺を買う時期がないのが現状だ。だから義父でさえ間に合わせの骨壺で済ましてしまった。残された家族は、お葬式にとても骨壺のことまで気が回らないに違いない。
 骨壺の話ついでに伊賀焼のことを言うと、古い伊賀焼で残っているものは、骨壺として用いられたものが多い。
 土木のオッサンが工事で掘っていたら壺が出てきて、そこらの愛好家と酒二本と交換し、その後骨董屋に数万円で売り、最後に数百万円で社長さんが買ったという話は伊賀にとても多い。
bR−3  02/08/21
 もう夏が終わってしまうかのような朝晩の涼しさだ。
 この離々日記以外に私がノートに万年筆で書いている昔からの日記がある。だが、陶器まつり等でここ最近忙しく、おまけに夜もずっと暑くて私の小さな書斎でペンを取る気になれなくて、日記を書かずにかなりな時間が経過してしまった。
 そうしてペンにインクを入れたまま長い間放っておいたことで、インクを吸うスポイトがおかしくなってしまったようだ。
 このペンは私が92年にシニア海外ボランティアでパラグァイに行くというので、ある人から餞別に頂いたものだ。10年間使っていて、スポイトを交換するのはこれで2度目ということになる。
 シニア海外ボランティアでパラグァイに行った10年前には私はワープロも使ったことがなくて、JICAに報告書を書くのに、3年間このペンで苦労したものだった。
 今、何故キーボードを使えるようになったかというと、95年に帰国してから98年に「世界はワシらを待っている」を風媒社から出版したが、その時一太郎で本を書いたからだ。
 私にとって初めての一太郎は驚きの連続であった。昔大学時代に皆でガリ版印刷をしたことを思えば文章の印刷も格段の進歩で、ともかく一太郎のおかげでようやく本を出せたと言えるのは間違いない。本の後書きで一太郎に感謝の辞を捧げようかと思ったぐらいだった。
 その時のパソコンもある人からの頂き物で、出たばかりのウィンドゥズ95を買われてNECの9800が不要になったので、私が貰ったものだ。
 まるで貰いものだけで仕事をしているようだが、今私が使っているパソコンは購入したものである。
 話をペンに戻すが、パラグァイの3年の間に今と同じようにインク漏れが生じ、パラグァイではそのメーカーのものがなく、日本に帰ってきてようやくスポイトを交換した。
 その時にそのペンの価格を知ったのだが、思っていたよりも随分高いものだった。シニア海外ボランティアで訳の分からない遠い国に行くというので、いろんな方から餞別を頂いたりしたが、彼からのは横綱級であったのだった。誠にありがとうございました。
 私が学生の頃はパーカー万年筆が憧れで、パーカーインクも日本のより随分高かった。最近インクを買うことがあって、これも本当に驚いたのだが、今や日本のものの方がパーカーインクより高いのである。
 ペンを使う人が少なくなってインキの需要が減り、コスト高となって価格が高くなったのが日本で、アメリカのパーカーは世界中に販売しているのだろうからまだ売上も日本のメーカーに比べればましで価格を据え置いたままにしていて、おまけに為替レートのせいで安くなったのかと思うがどうだろう。
bR−4 02/09/18
 卒業間もない頃はそれなりによく会った仲間も、さすがに30年も経つとなかなか会わなくなってしまった。そのころの飲み会で誰が一番の変人かということになって、多数決で私だと、言われたことは当時結構ショックだった。
 私には彼には負けるというのがいたからだ。当時がに股トリオと呼ばれていた一人で、東大コンプレックスが強く何度も挑戦したのだがかなえられず、しかし今はお医者さんになってはいるが、彼には変人ぶりは負けると私は考えていたからだ。
 もう一人は卒業後普通の会社のサラリーマンになったのに、突然辞めて猛勉強して公認会計士になってしまった。彼はまだ少しは普通っぽかったか。
 もう一人は私と言うことになる。がに股トリオは結局、専門職指向がとても強かったということになるのだろうか。しかも当時は全員農学部だったので、大学経歴を活かしてないのはそのとおりだと思う。
 トリオ以外の当時の仲間の中には、もう決して会えない状況になってしまった友もいる。その友は我が頭脳として認識していたので、友亡き後ここ五年間まるで私は彷徨う子羊のようになってしまった。
 世間には知識の広い人は多いのだろうが、私の側で未だ嘗て彼ほどの博学な人は見たことがない。例えば私には、骨壺のヒントを与えてくれた。青磁の話もしてくれた。大作の制作について話を聞くことにしていた・・・・
 彼の夢は映画館の経営であった。中でもダーティ ハリーは最高で、その話をしたら尽きることはない、と言っていたのだが結局何も聞くことはできなかった。
 彼が大学の中国哲学の先生として働くようになってからは、元来の真面目さで忙しく、かつ異常なまでの恥ずかしがり屋で謙遜家だったので、時々貰う絵はがきからは伺いしれたのだが、愛する人を見つけて結婚に至ったのだった。
 今までの「強いる不幸な生活」から、急に夢のような幸福を手に入れたので、ある後ろめたさを感じたのだろうか?大学時代に彼の親友が自殺しているので影響がなかったとは決して言えないだろうが・・・
 別の友人からの話なのだが、孫が生まれるというので彼の父親が妻に金を送ってやれと、片手を開いて示したと言う。私など貧乏暮らしなので片手は50万円のことかと思うのだが、彼の実家はお金持ちで、それを聞いた彼の母親は500万円を送ったと言う。だが彼は妻にその金のことを知らせずに学生達と全部飲んでしまったらしい。元々小柄で酒は好きだがそう強いとは言えなかったのに、学生を引き連れて度を越して飲み過ぎてしまった。また「強いる不幸な生活」スタイルを長く続けてきたので、身体が弱っていたのに違いない。
 彼の後輩で伊賀にも一緒に来たことのある人から貰った葉書は、一月ほど前に彼の葬式のあったことを告げるものであった。急な死は関係者に相当の影響を与え、学園葬のようなものが執り行われたと言う内容であった。



冨山善夫(とみやまよしお)
都美恵窯(つみえがま)

陶房
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