●離々日記(1)

bP 02/03/25〜02/04/27 bW 03/10/25〜04/01/22
bQ 02/05/12〜02/06/29 bX 04/02/13〜04/06/06
bR 02/07/13〜02/09/18 bP0 04/08/10〜05/03/25
bS 02/11/08〜02/12/24 bP1 05/05/12〜05/12/10
bT 03/01/07〜03/02/26 bP2 06/01/20〜
bU 03/05/12〜03/06/17
bV 03/07/06〜03/09/18

bP−1 02/03/25
  最近日記を書くことが少なくなった。
時々思い出して昔のものを読み返すことがあるが、進歩がないと情けなくなる。
結構古くから書いていて、動機は学校の宿題だったか、アンネの日記なぞを習った時に書き出したのかもしれない。
 私にも思春期はあって、皆そのような時期に日記を始めるものだろう。つまり中学生からであった。すると40年間ぐらいと言うことになる。
 大体日記は残しているのだけれど、パラグァイに住んでいた92年から95年にかけてのものが、一部紛失したような気がしている。というのは、シニア海外ボランティア体験記を書くに当たって資料を探していた頃、どうもその頃のある時期の日記がなかったからだ。
 でも、忙しくて書いてないのかもしれない。時々何ヶ月も書かないことがあるので、はっきりはしない。このごろは私の書くものは、日記とは呼べなくなってきている。
 誰も読んでくれないかもしれないがこんなことを始めたのは、いろんな人からのご意見からでもあるし、他人のホームページを見ると、結構面白いことが書いてあるからだ。
 昔は謄写版で学校にまくビラなど作って徹夜したようなこともあったが、そのころの労力と比べると机の前でキー入力するだけで発表できるのだから、真にパーソナルなものとなった。
 こんなことを書いていても面白いとは少しも思わず、誰も読みたくもないのではないかと思うが、まあ初めてのことと言うことで許して下さい。
 それにこんなことは、簡単に廃止できるのでつまらなければおそらく誰の記憶にも残らず、消えて行くに違いない。
 実はここからは、時間差が一日ある。面白いというのはどういうことかと少し考えたからだ。
 それで私の住む伊賀のこと、いやもっと身近ないわゆる田舎生活を表すのはどうだろうかと、決めた。
 都会の生活とかなり違うことの点は、何代にも渡っている付き合いがあることだ。都会からの引っ越し組では初代と言うことが多いだろうから、彼らが書いた田舎暮らしのいろんな本が出ているが、もう一つ私にはピンと来ないことが多かったのは、そのことであったのだ。
                 
bP−2 02/04/01
 私の住む伊賀の紹介をしよう。
 「伊賀」と聞けば普通「忍者」に言葉は繋がりやすいが、伊賀の地理的な位置は、名古屋と大阪を直線で結んで、そのほぼ中間にあたる。大阪からでも名古屋からでも、最も遠く田舎の風情をより多く残している。
 私の住む伊賀町は人口が1万人ぐらいだが、決して過疎の町ではない。ある意味で都心のようでもある。というのは、名阪自動車道に沿って工場が立地し、昼間人口が夜間人口より多いのである。更に名阪自動車道の交通量のせいで、結構空気も汚れていると思う。そして小学校が三校、中学校が二校、高校が一校ある。
 田舎によくあるように面的に発展せず道沿いに家並みが続き、それぞれの集落は小字を形成している。しかし、行的政な住所表記には現在は小字名が廃止されたようで、大字と番地だけでは地元の人さえほとんどの人には何処を指すのか解らない。
 例えば私の行政的住所は、阿山郡伊賀町柘植町2226だが、柘植上町(かんまち)2226と言わなければ、柘植町2226の番地だけでは地元で道を尋ねてもおそらく教えてもらえないだろう。 
 旧道は大和街道と呼ばれ奈良から伊勢へ抜ける賑わいのあった街道だったらしい。私の住む上町はかつて小さな宿を形成していたようで、私の少し前の代は造り酒屋だったし、近所の家は、何軒か屋号と言うものを持っていた。鶴屋、鍵屋、尾張屋、近江屋と屋号だけを聞けば随分な大店のようだ。
 その宿場のころは江戸時代の話なので、私が子供の頃に近所の遊び仲間から、昔はうちの家は豆腐を作っていたとか、旅籠をしていて家の中に博打場があったとか、ここは心学の寺子屋があったとか、話を聞かされるだけで何も私が実際見たというわけではない。
 我が冨山家もそう古いと言うわけではなく、どうも織田信長が伊賀攻めをした後に移ってきたようで、いわば占領地に入植してきたような感じではなかろうか。したがってそれ以前となるときわめて曖昧になってしまう。
 代々のお寺が上町にあって、お寺そのものの名前が「徳永寺」と言い徳川の葵紋を寺紋に戴いていると言うような徳川べったりのものなので、その檀家である我々ははたいてい皆そう古いとは思えない。
                 
bP−3  02/04/10
今日で植木の移し替えがようやく終わった。
 何故移動したのかというと、家屋敷地の境界移動があったからだ。
 ある両家A家とB家の、話せば長くなるような、何処にでもあるような、当事者以外にはくだらないことにしか思えないような、境界争いのそうは長くはない歴史。
 A家の祖父は「オボッチャン」だった。東京の下宿は、早稲田学長の大隈重信氏の家だったらしい。地方の酒屋の良くある馬鹿息子であったのだろう。
 彼の性格はもちろんお人好しでもあって、そうこうで破産状態になってしまった。家屋敷も抵当に入っていたので、酒の小売りだけは続けていたが、土地名義は金を借りていた農協に変更されてしまったという。昭和初期の頃らしい。
 少なくとも45年ぐらい前には、A家の裏の敷地にお茶工場というのがあって、農協が地元のお茶加工をしていた。農協の土地なので農協が有効利用を考えたのだろう。
 ところが、道の前は大きなA家が塞いでいたので、脇道からの入り口が少し狭いとかで、農協が少しB家の土地を借りて通行していたという。
 戦前はお茶工場ではなくて、何か軍事的なものを作っていたらしく、B家は少しでも土地を貸すのは嫌だったらしいが、戦争なのでそうも言っておられず、農協に貸すことになったという。
 戦後嫁いだA家の若嫁は、舅(元オボッチャン)から境界を聞かされていたと言うが、ついぞB家と立ち会ってどうこうということはなかったようだ。また当時は農協の名義になってしまったので、A家は境界と関係のない立場であった。だがお茶加工の営業はそう長く続かず。また空き地に戻ってしまった。
 かつて造り酒屋だったA家は、家だけでもかなり立派であったが、残念ながら類焼にあって40年前ぐらいに焼失してしまった。火事で焼け出されて気の毒だと言うことで、抵当に入っていた土地を買い戻すことができたらしい。
 ここで、農協とB家の交わした契約のことをA家は確認していなかったようだ。この時点で境界を示すことが出来たらと思う。その頃B家の主は家の裏に畑を懸命に作っておられ、また特にA家では家業に勤しみ、あまり利用価値のないものと見なしていたらしく、いい加減にしていたようだ。「金持ちけんかせず」のようなことか。
 しかし、すっかり意気消沈したA家は家業を続ける意欲をなくし、京都に出ていってしまう。酒屋はC家が引き続いて営業を続けた。
 A家はC家と賃貸借契約を結んでいたのだが、A家が京都に出てから10年ほどの時間が経過して、C家はA家の営業権と土地の一部を購入した。その際、C家は、ほとんどA、B両家の土地の境界とは無関係な立場であった。残されたA家の土地は荒れるに任せておいたので、お化け屋敷とさえ言われていたそうだ。
 ところがA家の長男がそこに’70年代に家を建て、おまけにA家の長女の婿が裏の空き地で商売を始めた。これが継続していたら、それなりに安定した均衡が保たれていたと思う。
 だが’90年頃に裏の川に橋が架かって、道が作られることになった。お上が公共事業をするときは、補償の問題が起きてくるので、権利関係をきちんと調査することになる。お上がAB両家の境界を決定して、京都に住むA家に認定の判を貰いに行った。この時に最後のチャンスだったと思うが、A家は判をついてしまう。
 というのは、当時A家の長男夫婦は海外に住んでいてそこにいなかった。さらにA家の長女家族もそのころ新しい土地に移ってしまい、やはりいなかったからだ。
 この時の境界決定の方法は、B家の主がお上にここだと示しただけだという。一般的に言って境界は両者の立ち会いでなされるのが普通だが、そのようなことはなかったらしい。
 でもそれで一応けりは付いたと言うことで、二車線の数百メートルの立派な道路、同じく橋が完成した。A家の長男夫婦は、もうその頃には帰国していた。
 B家の主は当時既に高齢となっていて、こうやって長きに渡り大切に維持管理していた土地を約束通り自分の名義に変更してほしいと裁判を起こした。約束のことは部外者には解らないが、ともかくB家の土地は、遠くに住むB家の親戚D家のものだったのだ。
 もう先が長くないのでここで決着をつけなければ、永遠に土地はB家に帰ってこないと言う気持ちだったのだろう。残念ながら裁判の途中でB家の主は亡くなられたが、その妻(やはり高齢)が訴訟を引き続き、その結果B家とD家の名義変更をめぐる土地訴訟は、対象全体の土地の中で家屋のある敷地をB家のものとし、残りの畑地をD家のものとすることで決着したという。
 つまりA家とB家の長年に渡る境界問題は、A家とD家の境界問題になってしまった。D家は土地になじみのない家なので全てを弁護士に任せ、弁護士とA家の帰ってきた長男とで話し合い、A家が主張する戦前からの古い境界と、B家が道路建設でお上に告げた最新境界の中間を新境界と決定することにした。
 これが植木の移動理由であったのだ。
                
bP−4  02/04/18
 初めて外国人を見たことを、今でも鮮やかな記憶として持っている。
 自分が何歳ぐらいだったのかは、はっきりしない。でも私は’50年生まれなので、’55年まで頃のことだと思う。
 我が家が酒屋をしていたので、アメリカ兵がジープで乗り付けて、ウィスキーを買いに来たのだ。
 祖父と母がいたようだが私は祖父にアメリカ人が来てると聞かされ、好奇心で店に出た。
 ジェスチャー混じりで話をしているアメリカ兵は金髪で見たこともない身の丈であったが、むしろ私が強く記憶に残るのは、母がトマトのように真っ赤になっていることだった。
 幼い子には母は絶対で、いつも守ってくれる神様のような存在だが、その「神様」が硬直して真っ赤になっていることが、非常に奇妙に感じられた。
 後で理由を何度も母に尋ねて叱られたが、ウィスキーの他にタマネギが欲しかったのだそうだ。
 当時は母も若くて20代であったはずだが、母は私にはいつも同じような歳に感じられ、その時のアメリカ兵は30代の将校のようであったが、当時でも今でも母にそう違いを感じないのは、私と母の親子関係が変わらないからなのであろう。
 同じ頃飛行機のアメリカ兵を見た。
 今でも伊賀は航空航路になっていて、上空をヘリコプターや飛行機が良く飛ぶ。私は飛行機が大好きであって、当時エンジン音が聞こえると外へ飛び出して、色んな型の飛行機を見た。中でも印象的なのは、双胴の米軍機P−38だった。しかし飛行高度はかなりなもので、何時も小さく見えるだけであった。
 ところがある日、大きな飛行機が轟音と共に迫ってきて、我が家裏の檜の先を「バリバリ」という音と共に去っていくのを目撃した。一瞬のことだがその飛行機の胴体部のドアが開いていて、アメリカ兵が立ちすくんでいるのを見た。墜落寸前で何とか上昇に転じたのだろうが、あのとき墜ちていたら私は死んでいたかもしれない。
 だが不思議なことに誰もそのことを話さない。どうも私一人だけが経験したようだ。今となっては夢のようだが、これだけ具体的な記憶なのである。
 外国語を話す人。
 最寄りの柘植駅(当時は国鉄)から京都へ行った時、初めて外国語を話す人を見た。私が小学生だったのだと思う。
 その頃年に何度か家族と京都へ買い物に出かけたようだ。柘植からは今でも全く同じ行き方だが、まず草津まで出て、東海道線に乗り換えて京都に行く。
 汽車が混んでいたから、東海道線でのことだったと思う。二人のおばちゃんが顔つきは全く変わらないのに、さっぱり解らない言葉で、熱中して喋っている。初めてのことだったので、どこかの方言かとも思い、子供なりに注意深く聞いていた。身振り手振りの活き活きと大きな声で、しっかり情報交換しているようだ。たまに出てくる固有名詞は日本語だが、結局最初から最後まで何も解らなかった。
 その時、両親に聞くこともせずにいたが、それが韓国語だったのだろうと理解したのはかなり時間が経ってからだった。
                 
bP−5 02/04/27
 田舎暮らしは、隣近所の情報が多いということをよく聞くだろう。真にそのとおりで、ある部分の各家の収入はどれぐらいか、近所は互いに知っている。
 その仕組みはこうだ。まず10軒前後の近所の家が一つの単位として組を形成する。。それは戦前の隣組制度と今の納税協会が合体したようなものだ。そしてほぼ毎月持ち回りしてそれぞれの家で会合を持つ組単位の税金常会というものがあるからだ。
 常会では組長(頭)さんが最初に行政の連絡や話をする。もちろん必要な時は皆の意見の集約もするが、時によってはお酒などが出てくることもあるし、大体世間話で夜遅くまで盛り上がることが多い。
 ここで国保、上下水道、県税などの徴収を行う。集めたお金は近くの銀行から振り込むが、手数料として報奨金というものが組に貰える。報奨金は組の行事(新年会、旅行など)のお金として使う。
 徴税に住民を使うのは非常に巧妙な仕掛けだと感心せざるを得ない。そして組長は、よほどの事情がない限り回り持ちである。それなりに責任のあることを平等にさせるということも、行政への住民参加という点では優れていると思う。
 私もここで陶器屋として開業した時に、組長に「組入り」を強く促され、言葉の響きにびびったことを思い出す。組入りすると自治会費のようなものを毎月払わなければならないし、道作りとかの共同作業にも出ていくのだ。
 組の旅行ではだいたい組長がツアーコンダクターになり、旅先で酔っぱらった組員が、何かと大声で「くみがしら!くみがしら!」と呼ぶので、周りの人にやくざと勘違いされたと言うことを聞いたこともある。
 我が組も一泊旅行に行ったこともあったが、時間的に難しい家もあって、組の日帰り旅行として名古屋に大相撲を見に行ったことがあった。相撲はなかなか好評だったので、次回の幹事であった私は野球観戦を提案した。私は昔の大洋である横浜ファンなので、名古屋へ中日横浜戦を計画したが、多くは阪神ファンなので猛反対にあってしまい、結局その年は何処にも行かなかった。すると元々面倒厄介だったのか、行かないことが慣例化してしまい、今では組旅行は無くなってしまった。
 私の住む伊賀町の小字の上町(かんまち)は区名でもあり、上町区と呼ばれる時は、何かの行事、祭りとか運動会に他の区と合同参加している場合が多い。
 その区の下に組がある。組長さんは毎月一度は区の幹部会というものに出席しなければならない。区にはたいてい三役があって区長、副区長、会計などがその任にあたる。都会の自治会に当たるようなものが区といえるが、その権限と責任はより重い。田舎の区は山林などの共同財産を持っていることが多く、区民はその管理運営、平たく言えば植林や下刈りなどの山仕事をする必要がある。立木を売った代金なども区にプールされていて、行政で賄えない事業に支出することもある。
 区入りするとは、その共同財産の権利と管理義務を持つことを意味する。事情で区を出るときには一定の金額がその家に支払われた時もあったという。だから区入りするときには、ゴルフの会員権のように幾らかで買うことも時に要求される。
 今は昔のことだが、かつてのゴルフ場開発などで区山が売買の対象になった時は、相当の金額が動くことになった。ある区では、元の権利の内容に格差があるので、それに応じて金額がおそらく異なるのだと思うが、家当たり最低三千万、最高三億の金が入ったという。
 区によっては、次男などが同じ敷地に家を建てて一家をなしても、小屋扱いということで権利、義務を持ってないこともあるらしい。同じ区に住んでいながら区入りしてなかった人には補償金など一銭も貰えず、その人は悲観して自殺したというようなことも聞いた。漁業でも定置網の権利というものはそのように運営されていると聞いたことがある。
 さらに複雑にするのは寺や神社の運営だ。昔は区民は皆同じお寺の檀家で、かつ同じ神社の氏子だったので、区単位で寺、神社のことをしてもさほど問題なかったと思うが、今では馴染まないと思わないではない。例えば区で伊勢神宮、津島神社、愛宕神社に参ってお札を貰ってくる当番を毎年決めているが、これは宗教行事であるので問題があるようにも思う。
 組としての最大仕事はなんと言ってもお葬式だ。組内に死者が出ると、組長が葬儀委員長を務めなければならない。勤め人だと最低二日は休暇を採らなければならないだろう。女性は各家から一人出て炊事を手伝うが、自分らが集まってその食事の支度が仕事なので、何か割り切れないところもある。しかしこれも当地のお寺の檀家ならさほど問題ないが、そうでない家もあるので今後難しいことが多いと思う。
 この時代、区に自治会の機能を求めることは無理がある、組織を別にすることが私は良いと思うのだが。



冨山善夫(とみやまよしお)
都美恵窯(つみえがま)

陶房
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