●離々日記(6)

bP 02/03/25〜02/04/27 bW 03/10/25〜04/01/22
bQ
02/05/12〜02/06/29 bX 04/02/13〜04/06/06
bR 02/07/13〜02/09/18 bP0 04/08/10〜05/03/25
bS 02/11/08〜02/12/24 bP1 05/05/12〜05/12/10
bT 03/01/07〜03/02/26 bP2 06/01/20〜
bU 03/05/12〜03/06/17
bV 03/07/06〜03/09/18

bU−1 03/05/12
 一年中で一番良い季節かもしれない。毎日驚くほどの早さで草は伸びてくる。我が家のささやかな庭も皐が開花を迎えようとしている。
 周りも田植えなどで慌ただしくしていると私も思わず農作業モードに入ってしまう。
竹灰の釉薬を作ろうとしているので、竹灰を水と混ぜて釉薬成分を沈殿させ、アルカリ分の多い上澄みを農薬のように使えるのではないかと考えた。市販されている木酢液などが似ていそうなのでそう考えたのだ。
 バラ、桃とリンゴが今まで特に弱かったので、それに集中的に竹灰上澄み液を噴霧したら、なんと若葉がアルカリにやられてしまったようだ。
それでも皐は強いのか、何ともなかった。農業の先輩が樹に撒けと言っていたのが、このことかと思い出したが、既に遅く、何でも経験がないと難しいものだ。
 ここで日記を書くのはもちろんパソコン上なので、これがまたある日から調子が悪くなってしまい。いろいろ更新などが遅れてしまった。
 症状はパソコンのマウスの矢印が数秒間隔で砂時計に代わり、チカチカ点滅する蛍光灯のようになってしまい。書き込みなども何ともならなくなってしまった。
 原因はusb接続にあった。不明なデバイスのところを使用不可にしていて、赤×状態で、使用不可なのだからこれで良いと思いこんでいたのが原因だった。
 不明なデバイスをもう少し弱い状態でキープしておけば良かった。使えるのだが使っていないというようなものか、ともかく不明なデバイスを黄マークにしておけば問題なかったのだ。
 そうとは知らず、環境変数を読み込まない、遅延書き込みをしない、・・とよく意味がわからないまま、何度も彷徨いながらあちこちの基本設定にトライしていた。
 さらに何度も起動ディスクを使い再インストール、あるいは再起動でsetupにdeleteキーを押して、訳の解らない英語を読んだりして、かなりな無駄な時間を消費してしまった。
 おかげで何となくビルゲイツ氏と対話を交わしたような気がしてすこし彼のことが理解できたような気がしたが、とても疲れた。
 それでも完全回復には至らず。internet explorerが今面白い状態だ。
コントロールパネルのアプリケーションの追加と削除の中にはinternet explorerQ813489とmicrosoft internet explorer6があるのに、立ち上げたinternet explorerのバージョンはv5.5なのだ。
 さらにv5.5の何度updateを試みてもうまくいかず、特に不自由がないので今はもう諦めた。
 microsoft社は嫌に親切なところと、ぶっきらぼうが混在するように感じられる。
 初めてパソコンに触ったときに、とても悩んだことを今でも思い出す。
 パソコン上ではファイルなどの名前が一字でも違うということは、異なるものと思い込んでいたのだが、カタカナのデスクトップのマイ ドキュメントとCディスクの中に見える英語のMy Documentsが同じものであるということを認識するのにかなりの時間を要した。  
bU−2 03/05/25
 ここで何か書こうといつも考えているわけではないが、普段の生活でふとこのことについて書こうと思いつくことがある。
 その時はこれは素晴らしい良い思いつきだとしているが、別の用事をしている内にいつの間にか忘れてしまう。
 会合などの日程表として古い電子手帳を未だに使っているが、これは入力に時間がかかるのでごく簡単な事項しか入れられない。思いつきを入力するのは不可能だ。
 その前はシステム手帳を使っていたが、日程を書いたり消したりすると何がなんだか分からなくなるのでその点はデジタルは便利だ。毎日記入するほどの予定もないので、今の状態で不便を感じないが、デジタルの全くない頃、世間でワープロが流行っていた頃には、私は全くデジタルには無縁であった。
 その頃よりまだ前、私が昨陶を続けながら独身生活を伊賀で送っていた頃は、何日間も誰とも喋らないような時があり、家にテレビもなく、夜が寂しくなり、酔って自分でくだをまくのを録音していたことがあった。  
 後で聞くようなことはほとんどなかったが、録音することで誰かに聞いてもらっているような安心感を持ったのだろう。当時は本当の日記も熱心につけていた。
 それにしても自分の声を聞くのはいつも嫌なものだ。映像も同じようなもので、何度かテレビにも出たがその録画ビデオをあまり視たいとは思わない。
 自分自身を外から客観的に見ることは無いわけで、普段よく見慣れている人とは、その時間に比例していることになる。
 自分自身が最も身近な人なのは当たり前で、つまり自身眠くて寝たり、飢えて食ったり、何か考えたりして、自身が常にもっとも一番近くにいることになるが、自身を見ることは鏡以外あまりないので、自分を視ることに経験が少なく、生理的に一番近いのに客観的に知らないようなギャップが、奇妙な違和感を録音や録画に感じることになるのだろう。
 相当古いことであるのに、歩道で信号を待っていた時、向こうのお店のガラス戸に映るのが自分だと気づかず、「けったいな奴やなあ」というのが自身だったのは、かなりのショックであったことを覚えている。
 それからはあまり変な格好をしないようにと少しは心がけていたが、もうオッサンになってからは、妻に「着替えないなら、一緒に出かけません!」とよく言われるようになった。
 友人で、(同業者の陶器屋はなかなか嫁さん難しい!)ウジが湧きかけているのがいたが、何故か結婚して急に特別なオシャレになった。
 ところが子供が何人か出来ると、前の状態ほどではないがまた戻ってしまったのがいる。
 今は伊賀に住んでおられるある奥さんは、かつて地下鉄通勤で大阪でOLをしていたそうだ。自宅通勤であったからこそ、収入のほとんどを服に費やしたという。OLの通勤服装は高くついているのだそうだ。 
bU−3 03/06/17
 今はもう梅雨になったので今年は特に残念だ。というのは少し前に良い日が続くと天気予報があったので、何年かぶりに我が家の屋根を塗り替えることにした。
 それがなかなか終わらずに現在35パーセントぐらいを残したままで梅雨に入ってしまった。今年は本当によく雨が降る。
 今日スペイン語教室から戻ったら自宅の裏で蛍を見た。最近ここでも下水道が完備したので、環境が良くなって蛍が飛ぶようになった。
 宣伝と言うわけでもないが、ここでも上下水道、CATV、コンビニ、ADSLが完備していて、なかなか便利なのだ。
 私が子供の頃は道に自動車が来ると「あっ車だっ!」と言って、わざわざ見に出て行ったようなものだったから、ちょうど今の中国奥地の生活状態であったろう。
 小学校に行っていた頃には農繁休業と言うものがあった。秋の刈り入れ時に稲刈りを手伝うために小学生が学校を休むことが出来るようになっていた。先生達も家の農事で忙しくなるからかもしれない。
 私は家に田がなかったから、近所の遊び友達の稲刈りに顔を出すことがあった。足踏み脱穀機が機械らしそうな機械で私には面白かった。
 当時はまだ耕耘機さえなく、今のパラグァイのように作業には牛を使っていた。私は家が酒屋だったので牛などには縁がなかったが、近所の農家は玄関に入ると直ぐ右側に牛小屋があって、本当に大きな黒い牛がいた。
 田舎だったので電話も普及してなくて、電話機は先ずレバーを回転させて電気を起こし、ついで交換手を呼び出し、線を繋いでもらうのであった。
 回線が少ないと言うので私の住む伊賀から京都などに電話するときは、先方の番号を伝えて一旦切り、局から再度架かってくるのを待っているのである。長いときには一時間以上待たされることがあった。
 呼び出し電話というのも日常のことで、結構遠い家にも電話が架かっていることを伝えに行くのである。たいてい緊急のことだろうからそれを他人の家で話すのだから、プライバシーも何もあったものではない。
 当時親戚が商売の車を持っていて、国鉄(JR)駅から電話が架かってくる。乗り換えを間違ったりした人を、最寄りの駅まで乗せてあげるのだ。平たく言えば無免許タクシーの白タクだ。車が貴重な頃はそんなものだったのだ。
 私の家は当時から畳だったが、ある家では畳ではなくて筵であった。白川郷の合掌造りなどでは今でも保存されていて、筵の部屋が普通で畳の部屋は特別になっているが、私が子供の頃に見た当時でも少ない伊賀の筵の家は、強い記憶となっている。
 当時は私はお金持ちのお坊ちゃんであったのかもしれないが、何せなんにもない田舎だったので、そういうことを感じたことはなかった。そうこうする内にいつの間にか今では貧乏になってしまったが、悲しいかな貧乏であることを感じない時はない。



冨山善夫(とみやまよしお)
都美恵窯(つみえがま)

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